福島県庁にSPEEDIのデータは届いていた!(JBpress 2012年04月19日号より)メルトダウンの恐怖の中、後回しになった住民避難


2012年04月19日(Thu) 烏賀陽 弘道

前回に引き続き、福島県庁に災害対策本部を訪ねた取材の結果(2012年1月上旬)を報告する。
取材に応えた担当者は、名刺を交換したうえで、災害対策本部の話として書いてもいいが、個人名は伏せてほしいと私に依頼した。
県庁職員の氏名にニュース価値はないので、それに沿う。
質問は主に2点である。
(1)地元で行われていた原子力災害を想定した避難訓練の内容。
(2)原発事故が起きた場合の放射性物質の流れを予測し、住民を避難させるためのシステム「SPEEDI」は生きていたのか。その情報を福島県庁は
どう扱ったのか。避難に役立ったのか。

放射性物質は「すーっと消える」はずだった

私は福島第一原発の地元、双葉町の井戸川克隆町長が「3月12日の水素爆発の数分後、町内に降下物が降ったのを目撃した」と話をしていたことを思い出し、福島県災害対策本部の担当者にその話を伝えてみた。
──放射性降下物を住民が浴びて被曝する被害を想定していなかったのですか。
 「そうです。『(放射性物質は)出て、すーっと消えた』という想定になっていました」

──それは、甘すぎるというより、おめでたすぎませんか。

 「というより、事故も数時間で収束することになっていましたから。雨が降ることも想定していません。つまり地面に落ちない、沈着しないことになっていた」

──地元に不安はなかったのですか。

 「なかったんじゃないかなあ。国も私たちも、原子力発電所事故が(地震津波)自然災害との複合災害として起きるとは考えていなかったので
す。起きた今となっては『言われてみれば、その通りでした』としか言いようがないのですが・・・」

──直近の訓練の内容を教えてください。

 「2010年10月に『福島第一原発の5号機か6号機で全交流電源を喪失した』という想定で訓練をしています。でもバックアップ電源がすぐに来て復
旧することになっていた。いまは現実の福島第一原発事故と同じように『考えられないような事故が起きた』という想定になっていますが」

──どうしてそんな軽微な訓練内容になったのでしょうね。

 「何でこんなことになったのか・・・(沈黙)県が仮にそういう想定をしても・・・(沈黙)。我々にそんな発想はないし・・・国もそんな発想はないし・・・原子力安全指針にも根拠がなかった」

なぜ国にSPEEDIのデータを送ってくれと頼まなかったのか

──SPEEDIの端末は原子力施設を持つ県の県庁には必ずあるそうですが、本当ですか。

 「そうです。福島県庁にも、もちろんあります」

──なぜ放射性物質の拡散予測のためのシステムなのに、いざ本番という時に役立たなかったのですか。

 「原子力発電所事故のときは(福島第一原発から5キロの大熊町にある)『オフサイトセンター』が仕切ってSPEEDIを管理することになっていま
した(筆者注:オフサイトセンターは交通や通信が途絶して、担当者も集まらず、まったく機能しなかった。さらに原発に近すぎて線量が上がり、
撤退。放射性物質を取り除くフィルターが通気口に取り付けられていなかった)。まず、それがダメになった」

 「原発事故の担当である原子力安全対策課や災害対策課は、県庁本庁舎ではなく、西庁舎8階にあります。そこに町村と結ぶファクスや衛星電話
もある。ところが、3月11日は庁舎そのものがつぶれるんじゃないかと思うほどの揺れで、壁にクラックが入り、退避することになった。災害対策
本部ができるはずだった本庁舎5階も『強度的に危ない』という話になったんです(それで急遽現在の災害対策本部がある福島県自治会館に入った)」

「こうして我々は目と耳をなくした状態になりました。衛星電話をかき集めて、やっと3台確保した」

──SPEEDIのデータがあれば、どうなっていましたか。
放射性物質の流れの方向を予測できたと思います」

──SPEEDIがなくても、風向など気象データがあれば、最小限の警告は住民にできたのではないでしょうか。

 「福島第一、第二原発周辺の風向や天気のデータはアメダス気象庁の地域気象観測システム)のものがあった。でも今回それだけで放射能雲の
流れを予測するのは難しかった。冬なので海風も山風も強いのが普通なのですが、風が巻いていた(1日の間に風向きが360度一周すること)」

──SPEEDIのデータを国はまったく送ってこなかったのですか?

 「3月13日だけ、ファクスで送ってきました(ファイルからプリントアウトを見せる)」

──国が自主的に送ってきたんですか?

 「いや、こちらから頼みました」

 国(東京)に画像があったということは、SPEEDIのシステムそのものは生きていたということだ。SPEEDIは端末があればどこでも同じデータが取
れる。インターネットと同じオンラインシステムなので、紙をファクスで送るのは本来奇妙だが、システム全体がダウンしていたのではないことが
分かる。結果をファクスでも届けることはできるし、電話で「北西方向は危ない。避難させろ」と一言伝えればよかったはずだ。

──他の日は来なかったのですか?

 「いえ、13日一日だけです」

──いちばん強い放射性雲が流れた3月15日にはSPEEDIがなかったのですね? なぜ国に送ってくれと頼まなかったのですか? もちろん、頼まな
くても国がどんどん送ってこなければいけないのは分かっていますが。

 「(しばらく沈黙)・・・15日は・・・今度は4号機の燃料棒プールに水がない、という話の真偽を確認するので必死でした・・・(燃料棒プー
ルには)格納容器がないんです。あれが溶けたら大変なことになっていた。数千本、原子炉3機分の燃料が入っているんです」

──つまり、4号機の燃料棒プールの危機にかかりっきりになり、住民避難は後回しになったということですか?

 「20キロ圏内の住民はもうすでに避難させていたのです。こちらの認識では、そういうことになっていた。もうSPEEDIの話は飛び越えていた」

 要するに、最悪の放射能雲が流れた3月15日は、県も国も住民避難のことはノーマークだったということである。

100万人を避難させるのは「物理的に無理」

──飯舘村は、15日の放射性雲の飛来にまったく無警告だったそうです。村人だけでなく、20キロゾーンから避難してきた人も、被曝してしまいま
した。

 「(またしばらく沈黙)我々は精一杯やったと思います・・・そう思いたいのですが・・・被曝した人にはそんな甘い話ではないですよ
ね・・・。避難した先で被曝したのは、失敗だったと思います。本当に申し訳ないと思っています」

──避難範囲をもっと広げるという案はなかったのですか。アメリカは50マイル(=80キロ)退避という選択でした(注:飯舘村原発から30〜40
キロ、福島市は50キロ前後)。

 「50キロ圏内の人口を試算してみたのです。中通り浜通り合計で100万人でした(注:福島県全県の人口は約200万人)。その避難住民を受け入
れる先があるのか。県庁、東北新幹線東北自動車道、すべてのインフラが中通り福島市郡山市が並ぶ県中央部)を通っているのに、避難する
ことができたのか」

──福島より北の宮城や岩手の復興にも影響があると考えたのですか?

 「中通りは工業地帯としても商業地帯としても最重要地帯なんです。それに、戦争だったとしても100万人の避難は物理的に無理なのではないで
しょうか。東海村の村長は『100万人が避難しなくてはいけないような場所に原発を立地するのが間違っている』とおっしゃっていました」

──3月15日の放射能雲にはまったく気づきませんでしたか。

 「線量がなかなか下がらないし、水道からも放射性物質が検出されるしで『これは容易じゃない』(深刻だ)という認識だけはありました・・・
でも、情報がなくて、本当によく分からなかったんです。本当に大変でした。メルトダウンしているんじゃないかとこちらは思っていたのですが確
かめようがない」

3月15日の夜にSPEEDIのデータは届いていた

 続いて、また仰天するような話が出てきた。

──確認しますが、3月13日以降、SPEEDIのデータは他のルートでファクス以外では国から来なかったのですか。

 「原子力安全技術センター(注:SPEEDIを維持管理している組織)が気を利かせて、災害対策本部原子力班にメールで送ってきてくれていまし
た」

──えっ! それはいつのことですか?

 「3月15日の20時30分以降です」

福島県・災害対策本部の担当者が見せてくれたSPEEDIのデータ。ファクスで国から送られてきた。(筆者撮影)
──気づかなかったのですか? そこでただちに飯舘村に「避難しろ」と言えばよかったのではないですか?(飯舘村に被曝が知らされるのは3月
19日深夜〜20日未明。全村避難が決まったのは4月22日

 「先ほど申し上げた通り、15日は4号機燃料棒プールのことで手一杯だったのです。みんな文字通り走りながら仕事をしているような状態で、パ
ソコンの前に座ってメールを読むような状態ではなかった」

──原子力班には何人くらい職員がいるのですか。

 「10人です」

──誰も気づかなかったのですか。

 「申し上げた通りです」